わかりやすい創価学会の誤り・創価学会員の皆さんへ

『慧妙編集室 編』

七、学会葬は間違っています!

学会員の皆さん、あなたは本当に、御僧侶も呼ばず、戒名(かいみょう)も無しの葬儀(そうぎ)を望んでいますか。
平成三年に日蓮正宗から破門されて以降、新興在家(しんこうざいけ)教団となった創価学会では、葬儀の導師も在家の幹部が行なうようになりました。そして、それに不安や不満を抱(いだ)く会員を納得させるための口実として、「大聖人の時代には、僧侶による葬儀は行なわれていなかった」とか、「大聖人の時代には、戒名は無かった。江戸時代に既成(きせい)仏教が金儲(かねもう)けのために始めたことだ」などと言い出したのです。
しかし、これは大ウソです。
御書には、富木常忍(ときじょうにん)が母の葬儀を日蓮大聖人にお願いしたことが記(しる)されていますし、日興上人が信者に宛(あ)てられたお手紙には、その信者宅の葬儀に御弟子の僧侶を遣(つか)わすことが述べられています。また、大聖人の御葬儀を記録した『宗祖御遷化記録』(しゅうそごせんげきろく)にも、御僧侶による葬儀の次第が明記されています。
そのように、大聖人の時代から、葬儀は御僧侶によって執行(しっこう)されていたのです。
また、戒名についても、「江戸時代に始まった」というのはでまかせの大ウソで、大聖人の時代から戒名はありました。その最初の事例は、大聖人が御父に「妙日」、御母に「妙蓮」という御名を授(さず)けられていますが、まさしく、これが戒名なのです。
こうした事実を隠して、「大聖人の時代には無かった」と言い切り、学会葬を正当化しようとする行為自体が、大聖人を冒涜(ぼうとく)していることになるではありませんか。
学会の内部では、「大切なのは故人を悼(いた)む真心(まごころ)である。戒名なんかより、いつもの名前で呼ばれたほうが故人も喜ぶ」などと言ってごまかしていますが、真心さえあれば成仏できる。というのであれば、仏法必要なくなってしまいます。こういうのを詭弁(きべん)というのです。
スーツを着た在家が導師をし、学会歌まで飛び出す学会葬は、一般世間の人にはことさら異様に映るようで、全国あちこちで顰蹙(ひんしゅく)を買っています。そうした中で、親戚(しんせき)から窘(たしな)められて思い悩んだ遺族(いぞく)が、幹部に相談した上で(!)念仏や真言の寺に葬儀を依頼する、というケースも続出しているようです。あなたの周(まわ)りには、そういう人は出ていませんか。
大聖人は「先(ま)づ臨終(りんじゅう)の事を習ふて後に他事(たじ)を習ふべし」(『妙法尼御前御返事』)
と仰せられていますが、後生(ごしょう)への旅立ちとなる臨終ほど大切な事はありません。
その旅立ちの時に、大聖人の御意(みこころ)に反する学会葬で送られた人々は、ことごとく不成仏の相(そう)を現じています。あなたも、学会葬に参列したことがあるならば、それに気がついているのではありませんか。
また、学会葬の導師を担当し続けた幹部の身の上にも、さまざまな不幸な現証が起こっていますね。
こうしたことを冷静に考えてみてください。そして、臨終に悔(く)いを残さないよう、一刻も早く嘘(うそ)ばかりの創価学会を脱会して、日蓮正宗に戻ってください。

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