わかりやすい創価学会の誤り・創価学会員の皆さんへ

『慧妙編集室 編』

十三、思い出してください、御登山のあの歓(よろこ)びを!

創価学会における大石寺への登山会は、昭和二十七年、戸田二代会長の発意で始まりました。
この御登山について、戸田二代会長は、次のように指導していました。
「なんといっても、御登山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている」
(『戸田城聖全集』第三巻490ページ)
さらに、三代会長となった池田大作さんも、
「我々が登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受(きょうじゅ)できることは言うまでもないのである。(中略)かかる絶対の大御本尊にお目に
かかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他のいっさいの行事に優先して行われているのである」
(昭和三八年一〇月一日)
と、登山会を「最大の行事」として推奨していたのです。
こうした会長指導のもと、当時、学会員の皆さんは喜々(きき)として登山会に参加していましたね。あなたも、大石寺に参詣して、大御本尊にお目通りさせていただく感激に胸をふるわせ、歓喜した思い出を、きっとお持ちなのではないでしょうか。
交通が便利になった現代と違い、けっして楽な道のりではなかった頃にも、また、金銭的に厳(きび)しい状況の中でも、いろいろな苦難を乗り越えて一生懸命に登山された方々。
全国から、そして世界から集まった同じ志の仲間達・・・。その心は、まっすぐに大御本尊に向かっていたことでしょう。そして、そのような信心の積み重ねの中で、たしかに大御本尊の絶大なる功徳を頂戴(ちょうだい)することができたのではないでしょうか。
ところが、創価学会は、宗門から破門されるや、指導を一変させてしまいました。いわく、「この御本尊は、信仰者の ”内” にあると示され、『全く余所(よそ)に求(もとむ)る事なかれ』と仰せである。当然、『どこか』に行かなければ成仏しないというのは大聖人のお教えではない。」(『創価のルネサンス』第一巻22ページ)
つまり、登山など必要ない、と言い出したのです。
以来、学会は大石寺を「魔山」「邪宗の寺」等と呼び、「登山すると多額の登山費を請求される」「野犬がいて危険」等のウソを吹聴(ふいちょう)し、あげく、秋谷五代会長の口からは、「大石寺をペンペン草のはえた荒れ寺にしてやる」などという、恐ろしい暴言まで飛び出すに至ったのです。
学会員の皆さん、よくお考えください。自分達に都合が悪くなったからといって、「大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることになる」との意義が変わってしまうなんて、変だと思いませんか。
日蓮大聖人は、総本山参詣の意義について、次のようにお示しです。
「仏菩薩(ぶつぼさつ)の住み給(たま)ふ功徳聚(くどくじゅ)の砌(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦(どくじゅ)し奉る所の法華経の功徳は虚空(こくう)にも余(あま)りぬべし。然(しか)るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし。」(『四条金吾殿御返事』)
あの大石寺の清浄な空気に包まれた感動と、大御本尊にお目通りできた感激を、もう一度思い出してください。皆さんは、たしかに大御本尊の信心をされていたはずです。
もう一度、親の元に帰るような気持ちで、大石寺へ参り、信心をやり直しませんか。

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